こんにちは"ないやん"です。
最近思ったこと。それは
【人に自分の素を出せる程に、自分に優しくなれるのもかもしれない】
です。
人との関係性を良くしようと思った時に、相手を分かりたい、相手のニーズを汲みたい、相手が不快ではないようにしたい、そう思うことがあります。
いつも相手が主語だと、とても相手のことを考えているような感じがする。けれど相手が主語だと、キリがないというか、相手がどう思っているかを100%知るのも、相手が思っていることを、こちらが考えて100%実現させるのは無理なわけで、それでも
"相手が"、 "私が"ではなく"相手が"、となぜそう思うのだろう、と考えていました。
相手の気持ちを考えるのは大切なことだけれど、完全に分かることはないし、どんなに言葉にしても完全に知ることはできない。それでも"相手"を軸にするのはなんでだろう。
その事について、人と話したり、考えたりして思ったんです。
相手を主語にしてしてあげたい事は、実は自分にしてあげたいことの裏返しではないのか、と。
例えば
・嫌だと思ったけれど言えなかった。だから言わないでも察して欲しかった
・やりたかったけれど、やりたいと言えずにウジウジしていた。向こうから声を掛けてくれればよかったのに
→だから私はそういう思いをする人がいないように、相手が何を考えているのか、できるだけ考えて動きたい。
察して嫌な思いをさせたくない。
相手のことを思う気持ちはとても大切。でも、相手の事は考えても分からない、というのも事実だと思う。
そう思ったときに、じゃあ"自分が"できることは何だったんだろう、と考えました。
そうしたら
もしあの時自分が「嫌だ」と言えていたら、
もしあの時自分が「やりたい」と言えていたら、もしかしたら、人に「嫌だという気持ち、やりたいという気持ちを察してほしい」とは思わなくなるのかも知れない、と思いました。
もし自分ができなかったことを、相手を介して自分に課しているのだとしたら、
自分が嫌だと思うことを嫌だと言う、
自分がやりたいことやりたいと言う、
ことがもしかしたら、自分が相手に求めなくなること、
相手にやってあげなきゃと思わなくなることなのかもしれない。
自分に素直に一歩自分を相手に出すことが、回り回って自分に優しくできる方法なのかも知れない、と思いました。